〜第4話 〜夢がまた一つ叶いました(近況報告)〜
このブログは「佐久間 信語」と「音楽」について記した内容で書き進めていきたいと思います。
僕は1980年2月3日、この世に生まれる。
名前は『信語』
良くみんなに珍しい名前ですねと言われることが多い。
信じるの『信』に国語の『語』
親にこの名前に込めた意味を聞くと
『人を信じ、自分を信じ、真実を語るひとになってほしい』
『信語の名前には口が3つあるでしょ?多くの人に自分の想いを語り継ぐ人になってほしい』
などなど、父母の想いがぎっしり詰まったお気にいりの名前『信語』を授かった。
ずっと、この名前と共に生きてきた。
そして、いつか大勢の人の前に立ち、自分の人生を語る講演会をしてみたいという夢を抱くようになった。
そして、そして、このブログの後半くらいで書こうと思っていた事を、今、書くべき時が来たので書きます。
実は初めてボーカルとしてステージに立った時から、プロの歌手に本気でなりたいと真剣に思った。
自分が表現したかった唄は尾崎豊さんのような魂の叫びのような熱い唄。
世の中の事などをストレートに伝える、曲を書いて唄いたかったけど、
自分の人生経験不足により、納得いく歌詞がなかなか書けなかった。
20歳の時にオーディションを受け、見事に落選してから、歌手の夢に固い固いフタをし諦めた。
それから、26歳の時に津軽三味線に出会い、三味線の音の響きに共鳴し気が付けば12年、三味線と共に過ごす人生を送った。
2010年、初めて世界の貧困の現状を自分の目で確かめたいと、アフリカはウガンダへ行った。
そして、その3ケ月後に東日本大震災が起き、2度、現地へ足を運びボランティア活動に参加させて頂いた。
札幌に帰り、被災地の現状を語るも、みんな無関心。札幌と東北の心の距離感に違和感を感じた。
俺が熱すぎるのか? 俺が変なのか?
自問自答を繰り返す日々。
これは他人事ではない!日本で起こった大災害!日本人としてみんなで助け合うべきだ!
そう思い!自動車教習所に通い、中型免許限定解除して、29人乗りのマイクロバスを運転できる免許に更新し、15乗りのハイエースをチャーターし、2013年9月 東北復興応援ツアーを自主開催し、12人の友達と共に被災地へ足を運んだ。
それから毎年、札幌の友達を連れて、延べ50人の方々と被災地の現状を自分の目で肌で体感しに何度も足を運んだ。
2013年1月、視覚障がい者である 柴田 俊也(てっちゃん)と出会い、視覚障がい者の生きる世界を知ることなり、
視覚障がい者と健常者が寄り添い合い、助け合える世の中にしたいと、点字メニュー表を作成したり、健常者にアイマスクをしてもらい、視覚に障がいがある方の世界を体験するの場を作り、心をつなげる活動をしてきた。
そして、2016年4月、熊本地震が起き、また現地へ行かねばと、魂が叫んだので飛行機を予約し、1週間分の宿を抑えて、行く予定でしたが、一週間前に辞退した。
2016年4月は17年間務めた会社を退職し、『サンライト・アビリティーズ』を設立したばかりで、
今は自分の事業の事を最優先すべきだろうと、頭で考え、頭で判断し、辞退することを決意した。
それから、ずっと後悔している自分がいた。
半年後、北海道に台風10号が直撃し、甚大た被害を被った!
この時ばかりは、事業のことを優先するなんていう考えは一ミリもなかった!
休みの日を全て、南富良野町、清水町のボランティア活動に注ぎ、気が付けば10回ほど被災地へ足を運んでいた。
37年間生きて来て、様々なことを実体験として経験させてもらった。
今なら自分の想い、経験を書いた唄を作れるのではないかと想った。
唄で伝えたいと思った。
そして、2018年1月26日 江別第三中学校 262名の前で70分間の講演会をテクニカルフィンガーズとしてさせて頂く機会を頂き、
この日の為に、てっちゃんと初となる唄の曲を作詞作曲し、講演会の最後に歌わせて頂き、自分の夢がまた一つ叶ったのである。
音楽を通して、そして唄を通して想いを伝えるという事が実現した。
ほんとに感動です。ありがたいです。自分は恵まれています。
今日までご縁で結ばれた家族、友人、全ての方に
『出会えたことに ありがとう』
長文を最後まで読んで頂きありがとうございます。
写真提供@丸藤健悟
〜次週へ続く〜